点灯夫のように生きよう 〜 外資系コンサルタントの小さなつぶやき

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とある外資系コンサルティングファームで働いているアラサーのつぶやきです

主体的に生きるということ:「7つの習慣」と「夜と霧」と「東洋思想」

読書の面白さの1つに、様々な書籍を読んでいると、時代や洋の東西、ジャンルが違っていたとしても、共通した考えや意見・主張を見つけられることが挙げられる。そういったものは「普遍的な教え」である可能性が高いとともに、一方でそれれはそれぞれ異なった書き方や切り口、文脈で説明してくれているわけであるから、多面的に学び取ることもできる。

 

今回は、そのような「普遍的な教え」だと思われる『主体的に生きる』ことについて、まとめてみたい。

 

主体的に生きるということ

主体的に生きるとは、自分で物事を選択し、行動していくということだ。

現状に対して言い訳をせずに何事も「自分ごと」と捉え、自らの行いの責任を自ら引き受け、他人や周囲に左右されずに自立して、真の意味で自由に生きるということだ。

 

7つの習慣に見る「主体的な生き方」

おそらく世界でもっとも読まれている自己啓発本の1つである「7つの習慣」の冒頭に出てくる教えは、まさにこと「主体性を発揮する」というテーマである。

書籍の中では次のように定義されている

人間として自分の人生に対して自ら選択し、自ら責任をとるということ 

これは、すべての出来事に対し、反射的に反応するのではなく、自ら選択をするべきだということだ。

例えば何か好きではない仕事/苦手な仕事が割り振られた時に、それを嫌々やるのか、それとも苦手克服のチャンスとみなして前向きに取り組むのか、それを決めるのは自分自身だということである。
他にも例を挙げると、例えば大事な約束があった時に電車の遅延で遅刻をしてしまった。その時に、公共交通機関の遅れだから仕方がないとみなすのか、次回から大事な約束の時は10分前に着くようにしようと心掛けるのか、の違いである。

 

7つの習慣では、これを「刺激と反応のモデル」と称して次の通り図で説明している。

 

http://www.franklinplanner.co.jp/learning/selfstudy/images/ss-10.gif

http://www.franklinplanner.co.jp/learning/selfstudy/ss-10.html 

 

反射的な人は、起こったことに対して考えずに反応してしまう。

一方主体的な人は、刺激と反応の間に、選択をする「スペース」がある。分かりやすく言うと、起こったことに対して、どのように振舞うのがよいのか考える間がある

例えば、駅を歩いていて人と方がぶつかった時に、無意識に舌打ちをする人はいないだろうか?また例えば、誰かが自分の悪口を言っているのを知った時に、すぐに怒ったり悲しんだりしてしまう人はいないだろうか?

その反応が、自分自身のビジョンや倫理観、ありたい姿をイメージした上で選択した結果であれば問題無いのだが、もしも無意識に反射的にしてしまっているのであれば、それは「主体的」とは言えないよね、というのが7つの習慣の教えである。

7つの習慣-成功には原則があった!

7つの習慣-成功には原則があった!

 

 

東洋思想の側面から眺めると

さてこれを東洋思想の側面から眺めてみよう。

論語の中には、次の言葉がある。 

君子求諸己、小人求諸人

君子は諸(こ)れを己(おのれ)に求め、小人(しょうじん)は諸(こ)れを人に求む

明解な言葉なので詳細な解説は不要かと思うが、シンプルに言えば、立派な人は何があっても他人のせいにせずに原因を自分の求め反省し次に活かす、といったところであろうか。

 

また東洋思想の大家である安岡正篤先生は、著書の中で次のように述べている。 

環境が人を作るということに捉われてしまえば、人間は単なる物、単なる機械になってしまう。
人は環境を作るからして、そこに人間の人間たる所以がある、自由がある。即ち、主体性、創造性がある。
だから人物が偉大であればあるほど、立派な環境を作る。人間ができないと環境に支配される。

小さい人間は環境に支配されてしまう。つまり刺激に対して選択をせずに反射的に反応してしまう。対して偉大な人は環境に左右されずに、むしろ自ら影響力を発揮して周囲を変えていってしまう、と言っている。

 

言い回しこそ違うが、根本にある考えは同じであることにお気づきだろうか。

洋の東西も、時代もまったく違うのに、である。

 

※参考

lightingup.hatenablog.com

 

lightingup.hatenablog.com

 

アウシュビッツでの凄惨な暮らしを描いた夜と霧が教えてくれる、生きるということ

もう1つ、別のジャンルの書籍を見てみよう。

「夜と霧」というタイトルのユダヤ人心理学者が書いた書籍をご存知だろうか。

簡単に紹介すると、第二次世界大戦中にユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われ、奇蹟的に生還した心理学者の著者が自らの経験を分析し綴った書籍である。

 

日本では1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。

書籍の中では、心理学者らしい観察眼で、強制収容所という極限状態における人々(これは収容者だけでなく監督官も含む)の心理状態が分析されており、考察は人間の存在そのものや、生きる意味とは何か、まで展開されている。正直、涙無しには読み進めることができない一冊だ。

 

さて、その中の感動深い一節を紹介したい。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。

(中略)

もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。 

 また、こちらも印象的である。

あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 

このような名文の後に私の駄文を重ねるのは蛇足にしかならないので、そろそろ筆を止めようと思うが、7つの習慣でも東洋思想でも、そしてアウシュビッツでの経験から書かれた夜と霧、切り口を変えながら主体的に生きることの大切さを訴えかけてきているのがよく分かる。

 

 

主体的に、生きよう。

 

ではでは。