物事の本質を捉える:お盆に考える「色即是空 空即是色」
お盆なので仏教ネタを。
言わずと知れた有名な「般若心経」の中の、これまた有名な一説である「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」。このフレーズは聞き覚えがあるという方も多いのではないだろうか。
意味としては、まず漢文を訓読文にすると、
「色はすなわちこれ空」
「空はすなわちこれ色」
となり、もう少し平たく言えば、
「色とは、空」
「空とは、色」
となる。
そのため、「色即是空 空即是色」を理解するためには、「色」と「空」とは何かを知る必要がある。
「色」とは何か。「空」とは何か
Wikipediaを見てみると、次のように書いてある。
色(ルーパ)は、宇宙に存在するすべての形ある物質や現象を意味し、空(シューニャ)は、恒常な実体がないという意味。
もう少し分かりやすく書くと「色」とは「目に見えるもの」「物質的なもの」「形あるもの」、つまりこの世の様々なモノや現象を表している。
一方で「空」は少し難しい。文字通り「から」すなわり欠如の意味なのだが、空っぽや無の意味だけかというと、それは少し違う(そうだとすると、「色即是空」も「すべてのものは無である」となってしまう)。そうではなく「空」とは、実体がないこと、つまり「唯一不変の存在はこの世にはない」ということを表す言葉である。
少し見方を変えて説明すると、形あるものはいつか必ず無くなるが、形があるものにはそれをそのものたらしめている「本質」があり、それを「空」と呼ぶという考え方もある。また目に見えない空を「原子」と見立てて、物理学や量子力学と紐づけて説明するケースもあるようだ。
色即是空とは
さて、色即是空に戻ろう。色即是空とは「色」=「空」だと説明したが、上記の「色」「空」の解説を踏まえると、目に見えるすべてのもの(色)は、実体のないもの(空)である、という意味になる。
うーん、これだけだと分からない。
もう少し噛み砕いてみよう。
人は目の前のもの、目に見えるものを、「それが全て」と考えがちだ。
だが、いつまでも普遍な物質などなく、目の前の物はいつかはなくなる。
しかし、それでは「全ては無」かというとそうではなく、その物体としての意味合い・本質は状態として確かにそこにある。それが色即是空であると理解している。
誤解を恐れずに言えば、物事の本質を見よ、というのが色即是空ではないだろうか。
空即是色とは
では続く空即是色とはどういう意味か。
形あるものはすべてのものは空=実体のないものである、というのが色即是空であるが、その反対の空即是色は「実体のないものが全てを作り出している」「物事の本質は実体がないからこそ、どのようなものにでもなれる」といったところであろうか。
方丈記で次のように書かれている。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。
星の王子さまではこうだ。
ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない
君は、夜になると、星空を眺める。ボクの星は小さすぎるから、どれだか教えてあげられないんだけど、かえって、その方がいいんだと思う。ボクの星っていうのは、君にとっては、あのたくさんの星の中の一つ。だから、どんな星だって、君は星を見るのが好きになるだろう。星たちは、みんな君の友達になる。
そうして、ボクは君に、贈り物をするんだよ。夜、星空を眺めた時、そのどれかの星にボクが住んでいる。だから、そのどれかの星でボクが笑っているんだ。だから君にとっては、まるで星みんなが笑っているみたいになる。
君には、どこに行っても笑いかけてくれる星空があるってことなんだよ
キリスト教のミサの中の信仰宣言(Credo)ではこうだ。
factorem caeli et terae, visibilium omnium et invisibilium.
すべての目に見えるものと見えぬものの創り主を(私は信じます)。
全ては目に見えない、大きな流れの中にあるんだ。それを宇宙っていうのか世界っていうのかは分かんないけど、そんなでっかいものからすりゃあ俺もアルもアリみたいなもんさ。流れの中の小さな一つ、全の中の一に過ぎない。だけど、その小さな一が集まって全が存在できる。この世は想像もできない・・・
物後の本質は空であるとともに、その空がそのまますべてのものの姿であるということ。
ビジネスの文脈で言えば、目の前の物だけに振り回されずに本質を見極め、そして本質を忘れずに追求すればどのような結果をも得ることができる、というところだろうか。
なかなか哲学的な難しい言葉ではあるが、お盆に考えてみるにはちょうど良いテーマだったかと。
ではでは。
※上記、個人的に調べたり解釈した結果なので、本当の仏教の教えと異なる面がもしあれば、大変失礼しました。