点灯夫のように生きよう 〜 外資系コンサルタントの小さなつぶやき

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とある外資系コンサルティングファームで働いているアラサーのつぶやきです

素して行い自らを得る:論語に学ぶその1

論語が好きな身として、前々から論語をテーマにしたブログを書きたいと思っていた。

新一万円札の顔になる渋沢栄一を引き合いに出すまでもないかもしれないが、論語を愛読する人は政治の世界でも経済の世界でも多く、またリーダー研修でも題材として使われもしており、21世紀の現代でも普遍的に読み継がれている実践的な書物である。
lightingup.hatenablog.com

私も好きな言葉がいくつもあり、ブログをはじめたのであれば紹介したいなと考えていた。しかしながら一方で、論語を語れる程の知識や経験をまだ持ち合わせていない身である。あくまで、論語がちょっと好きで、ちょっと知っているだけだ。

そのため、自分自身も論語を学びなおすという意味合いで、「論語に学ぶ」という副題を付けた。紹介したい論語の言葉はたくさんあるので、これからちょくちょくこのシリーズを続けていきたい。

 

素して行い自らを得る

さて初回は、「素行自得」という言葉。

これは私の座右の銘、モットーとしている言葉でもあり、自分では次の通り解釈している。


何があったとしても、どのような境遇にあったとしても、背伸びをするわけでもなく、他人を羨むわけでもなく、不平不満を言う訳でもなく、自分を見失わず、地に足をつけ、その場その場でふさわしい行動をとり最善を尽くしていく

 

さて、まずは実際の文章から見ていこう。

君子素其位而行、不願乎其外。素富貴、行乎富貴、素貧賤、行乎貧賤、素夷狄、行乎夷狄、素患難、行乎患難。君子無入而不自得焉。

君子その位(くらい)に素(そ)して行い、その外を願わず。富貴(ふうき)に素しては富貴に行い、貧賤(ひんせん)に素しては貧賤に行い、夷狄に素しては夷狄に行い、患難(かんなん)に素しては患難に行う。君子入るとして自得せざるなし。

 

キーワードは「素」と「自得」だ。

私が心の師と仰ぐ安岡正篤先生*1は、「素」について次のように語っている。

素は普通「もと」と読む。元来この文字の始まりは絵を描く白い絹、素絹(しろぎぬ)のことです。この素絹(しろぎぬ)がなければ表現のしようがない。つまり絵画という芸術を表現する生地(きじ)である。それから素地という意味になる。したがって素質、本質という意味になる

いろいろな表現技術、あるいは着色などは、みな素絹(しろぎぬ)の上にやるわけである。そこで『論語』に「絵の事は素より後にす」という名高い言葉がある。一部の学者はこれを「素を後にす」と読んでいる。これは絵を描いていて、いろいろ色彩を施して最後の仕上げに白色を使うこと。これに対して、朱子は「素より後にす」とする。
素は素絹(しろぎぬ)のことで、着色即ち文化というものはその後で施すもの、素質が大事だと解している。私はこのほうがいいと考える。人を指導する立場にある人、いやしくもエリートたる者は「その位に素して行なう」、自分の立場に基づいて行なう。自分の立場から遊離しないで行なうものである。現実から遊離するのが一番いけない。

 

富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い、夷狄に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。 

つまり、富んでいようと貧していようとも、その境遇に見合った振る舞いを行う。夷狄=異民族、現代風に言えば異文化にあればその習慣に従い、苦しい時でもそれを受け入れて前向きに行動する。

そのように振舞うことがすなわち「自得」であり、君子は常に自分を見失わない。「君子入るとして自得せざるなし」だ。

 

自得に関しては、同じく安岡正篤は次のように述べている。

自得ということは自ら得る、自分で自分をつかむということだ
人間は自得から出発しなければならん。
金がほしいとか、地位がほしいとか、そういうのはおよそ枝葉末節だ。

根本的・本質的にいえば、人間はまず何を得るか、まず自己を得なければいかん。
本当の自分というものをつかまなければならん。
これが自得だ。

自分を理解するということ。自分を理解し、自主自立して、他者に影響されるのではなく、真の意味で自由に生きること。それこそが自得の目指す姿だ。

また論語には次のような言葉もある。

君子務本、本立而道生

君子は本を務む。本立ちて道生ず

これもなんて良い言葉なのか!

「本」、つまり根本的なもの・本質的なものを大切することが正しい道に繋がるということであり、その一番のよりどころになるのはまさに自分自身、「自得」ではないだろうか。

 

しかし、それがなかなか難しい。自得の難しさを、師はこのようにも表現している。

人間はいろんなものを失うけれども、本当に一番失いやすいのは自己である
人は根本において自分をつかんでいない。
そこからあらゆる間違いが起こる。
人間はまず根本的に自ら自己を徹見する、把握する。
これがあらゆる哲学、宗教、道徳の根本問題である。

人間はとかく自分というものを忘れて人をうらやんだり、足元を見失うものだ。だから、自分の立場に基づいて実践することで、本当の自分、真の自己というものをつかまなければならない

ちょうど先日自己認識に関して書かれた「Insight - いまの自分を正しく知り、仕事と人生を劇的に変える自己認識の力」という書籍の書評を書いたが、自己認識、自得とは非常に難しいことだ。

lightingup.hatenablog.com

西洋論的に考えると、自己認識できているかどうかは結果論、つまり結果KPI/遅行指標として求められるものであるので、何かしらの先行指標が必要になる。それがまさしくその時々の自分の立ち振る舞い、「素行」であるし、昨今のはやりの言葉でいえば、オーセンティックであること、自分らしく本物であるということではないだろうかと考える(こう見ると、結局のとろこ、人の本質は時代や洋の東西に寄らないな、と感じる)。

lightingup.hatenablog.com

 

富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い、夷狄に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。 

端的に言えば、どんなときにも一所懸命であること。

 

何があったとしても、どのような境遇にあったとしても、背伸びをするわけでもなく、他人を羨むわけでもなく、不平不満を言う訳でもなく、自分を見失わず、地に足をつけ、その場その場でふさわしい行動をとり最善を尽くしていく。

そのように、私は生きたい。

 

ではでは。

 

*1:安岡正篤についてはこちらを参照。

lightingup.hatenablog.com