渋沢栄一と「論語と算盤」:論語で世の中を変えていきたい
少し前に、お札の肖像画が変更になるニュースが流れましたね。
中には「渋沢栄一って誰?福沢諭吉の方が有名じゃないの?」と言っている人もいたようですが、そこは因果関係が逆で、ロジカルに考えると一万円札の肖像画だったから福沢諭吉の認知度が高いのではないかと思っています。
※ロジカルに関しての投稿はこちら
福沢諭吉にしても、学問のすすめをちゃんと読んだことのある人はどれだけいるのでしょうか。恥ずかしながら、僕は福沢諭吉の書物を読んだことはないです。
一方で、渋沢栄一の書物でしたら、現代語訳版や解説付きではありますが、本棚を眺めると何冊か読んだことがありました。
例えばこれらです。
特に「論語と算盤」は有名ですね。タイトルは聞いたことあるという方も多いのではないでしょうか。
渋沢栄一とは?論語と算盤とは?
明治から大正にかけて活躍した実業家。明治6年に大蔵省を辞めて実業界に転身し日本の経済発展に尽力し、その生涯で設立や運営に関わった企業数は500を超えると言われ「日本資本主義の父」とも呼ばれています。
また渋沢栄一は私利私欲ではなく公益を追求する「道徳」と、利益を求める「経済」とを事業において両立させることを強く考えておいて、それを自身のキャリアの中でも実践してきました。その結果が、「日本資本主義の父」と呼ばれるほどの成果に繋がったのだと僕は考えます。
そしてその教えが書かれた書籍こそが、論語と算盤です。
では少しその中身を見ていきましょう。
道徳と経済の両立とは?
論語と算盤(現代語訳版)には次の通りはっきりと書かれています。
私は日頃の経験を通じて、「論語と算盤とは一致すべきもの」という持論を持っている。講師が懸命に道徳を教えていた際、彼は経済についてもかなり注意を払っていたと思う。これは論語のあちこちに見られる。国を動かす政治家には政務費がいるのはもちろん、一般人も衣食住の費用はかかり、金銭と無関係ではいられない。また国を治めて国民の暮らしを安定させるには道徳が必要であるから、経済と道徳を調和させなくてはならないのである。
だから私は、一人の実業家として、経済と道徳を一致させようとしている。そのため、「つねに論語と算盤の調和が大事だ」とわかりやすく説明し、一般の人々に注意を促している。
またもっと実践的な書き方としては、
道徳を論じている書物と商才とは何の関係もないようだが、商才というものはもともと道徳を基盤としているものだ。道徳から外れたり、嘘やうわべだけの軽薄な才覚は、いわゆる小才子や小利口ではあっても、決して本当の商才ではない。したがって、商才は道徳と一体であることが望ましい。
あるいは、
仕事を進めたい、事業を発展さえたいという欲望は人間に常に持っておくべきだ。しかしその即某は道理によって制御するようにしたい。ここで言う道理とは、仁・義・徳のことで、この三つを含むものだ。この道理と欲望とが表裏一体となっていなければ、中国の宋が衰退したようなことになりかねない。また、欲望もそれが道徳に反しているようなら、どんな展開になろうとも他人のものをすべて奪わないと気が済まなくなってしまう。結局、不幸に陥ってしまうだけだろう。
とも書いてあり、このように何度も何度も繰り返し道徳と経済を一致させることを教えといています。そう、ポイントは「一致」です。ある時は論語を読み、ある時は算盤を弾く、ではありません。片方の手に論語、もう片方の手に算盤。これが、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一が目指すスタイルなのです。
論語は極めて実践的な書物
論語には、自分のあり方を正しく整え、人と交わる際の日常の教えが説かれています。そのため極めて実践的な書物でして、そのため渋沢栄一もビジネスの原則に活用したのです。
しかし学生時代の国語の教科書で「子曰く・・・」と読んだ記憶からだけだと、なかなか論語とビジネスとの繋がりを思い描けないかもしれません。むしろ、論語はビジネスの対極にあるのでは?と感じる方もおられるでしょう。
このことに関しては、論語と算盤の中には次のように書かれています。
論語の中に「金と地位は誰だって欲しいものだ。だが、正しい方法で得たものでなければ身につかない。貧乏で惨めなのは誰だって嫌だ。しかしそれすらも正しい方法でなければ、なかなか貧乏で惨めにはならないものだ」というくだりがある。この言葉はいかにも金や地位を軽く見ているようなことろがある。けれども、これはある一面だけ取り上げて言っているのであって、よく考えてみれば、金や地位をさげずんだところは一つもない、この言葉に込められた本当の意味とは、金や地位に溺れる者を諌めているだけだ。
この通り、不正な方法で富を得ることに反対しているわけであり、正しい方法で得た富や金銭を蔑む文章は論語の中には書かれていないのです。
そうしてよくよく論語を読んでいくと、まったく説教くさいとか、古臭いとか、そんなことはないのです。むしろ、日々の仕事や生活に役立つ知恵がふんだんに盛り込まれており、現代風に言えば最高のライフハッカーの教えなのです。
具体的な例として、論語と算盤の一説を引用します。
客観的人生論と主観的人生論の二つのうち、実際、私がどちらがいいと思っているかは明白だ。私は客観的人生論の側にたち、主観的人生論を排除するのだ。孔子の教えにも、「仁者は自分が出世したいと思ったら、まず他人を立てる。自分がやりたいと思ったら、まず他人にそれをやらせる」とある。まさに世の中に対しても、人生に対してもこうでなくてはならないと思う。これこそが孔子が世の中を渡るうえでの覚悟なのである。私もまた人生の意義はこうあるべきだと思う。
なんという具体的な処世術ではないでしょうか!
このように論語には現代の私たちが学ぶべき教えがたくさん、たくさん書かれています。僕もまた論語に学ぶようにしていまして、せっかくなのでお気に入りのフレーズを1つ紹介します。
人の己を知らざるを憂えず、人を知らざるを憂うなり(不患人之不己知 患不知人也)
意味は、他人が自分のことをわかってくれないと嘆くものではない。そうではなく、自分が相手を理解しようとしていないことを諌めなければならない、というものです。
論語で現代日本は救われるのではないか
個人的には、一万円札の絵柄が変わる数年後に「論語ブーム」到来するのではないかと思っています。そしてそのブームは、チャンスです。
現代の問題だらけの日本社会。経営コンサルタントとしてこういうことを言うのはおかしいかもしれませんが、論語はそれを立て直す鍵になると思っています。
国民のよりどころになる道徳上の規律がしっかりと確立されていて、人がそれを信じて社会に独り立ちしているという状況だったら、人格は自ずから形成されるものだ。社会全体が、ただ流れにまかせて私利私欲に走るというようなことはないわけである。
次に、労使関係。
資本家は王道をもとに労働者と向き合い、労働者もまた王道をもとに資本家と相対するということだ。両者が取り組んでいる事業の利害は、両者に共通しているのだ。そこを理解してつねにお互いを思いやるようにしたいものだ。
私たち国民全員が地位役職や政治的思想の右左関係なく、正しく考え正しく生きるようになれば、自ずと社会はよくなっていくと思いますし、少なくともそれぞれがそれぞれのポジションからでしか主張を行なっておらず遅々として良い方向に進んでいないように見える政治や、一部の人たちの利益にしかならないような経済は変わっていくのではないでしょうか。
そういう思いのもと、これからちょくちょく論語を紹介する記事も書いていこうと思っています!
ではでは。
なおこのような道徳心では、僕は安岡正篤という大哲人を心の師として仰いでいます。安岡正篤先生の言葉を紹介した記事もありますのでよければ合わせてご覧ください。
これらも、まったくもって古臭い言葉ではなく、実践的な教えです。