点灯夫のように生きよう 〜 外資系コンサルタントの小さなつぶやき

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とある外資系コンサルティングファームで働いているアラサーのつぶやきです

生きていることそのものを噛み締める 〜 淡きこと水のごとし:安岡正篤の教えその3

びっくりするぐらい中身の無いどうでも記事がプレジデントオンラインに掲載されていた。

オッサンは会議用途で炭酸飲料を買う傾向があり、若者は水を買う傾向だそうだ。

打ち合わせや会議などをおこなう際、その場でもっとも年齢の低い若手がペットボトル入りの飲料を人数分買ってくる姿は、ビジネスにおける定番の風景のひとつだろう。

だが、こうした場面で「どんな飲みものを買ってくるか」が原因の“世代間断絶”が発生している、という声を耳にした。

50代の男性カメラマンが、取材先でこうぼやいていたのだ。

「撮影の合間、アシスタント(20代)に人数分(10人弱)のドリンクを買いに行かせたら、ミネラルウォーターばかり買ってきたんです。なぜ、水にお金を払わなくちゃいけないのか……。せっかく買うのだから、コーヒーやジュースを買ってきたらいいのに。信じられないです」

このエピソードを40~50代の人々にも話したところ、「あるある!」という意見が続出した。

「確かにウチの若手も、コンビニに行って『なんでも好きな飲み物を買っていいよ』というと水を選びます」(40代男性)
「『打ち合わせ用の飲みものを用意して』とお金を渡したら、2リットル入りの水1本と紙コップを買ってきたんです。コーヒーやお茶、ジュースなどいろいろな飲みものを何本か見繕ってくるのが当たり前の感覚だと思っていたので、一瞬、絶句してしまいました」(40代男性)

また、50代の女性社長は「私が若者に『何か飲みものを買ってきて』と頼んだときに水を買ってきたら、ムカっとします」と苦笑したあと、さらにこう続けた。

「若者と一緒に喫茶店に入ったりすると、彼らが烏龍茶や麦茶など自宅でも簡単につくれるような品を頼んだりする。これも、なんだかイヤですね。私がお金を払うのだから、イチゴジュースとかクリームソーダといった、家ではなかなか飲めないようなものを頼んでほしい」

president.jp

記事の内容へのツッコミはいったんおいておいて・・・笑

 

水っておいしいよね、、、と感じるとともに、僕が心の師を仰ぐ安岡正篤先生の「淡」についての教えをふと思い出した。

 

淡として水のごとし

子供時代に食べられなかったピーマンを大人になると好きになるように、成熟するにつれ(?)味覚は甘味、渋みと変化し、最後に行きつく先がの水の「淡」の境地のようだ。

老子は柔弱、つまり硬化しない、素直で弾力的な自然的生命の代表として水を挙げておる。老子は水の讃美者です。「上善は水の若(ごと)し」。善の上なるものは水だ。最もうまいものも水だと古人も言うておる。

「淡として水の如し」なるほどそう言われれば、死にがけに酒を持ってこいとか、コーヒーが欲しいとか言う者はない。水、水と言う。やっぱりこれが一番うまいのだろう。『荘子』に「君子の交(まじわり)は淡として水の若(ごと)し」という名高い言葉がある。ある弟子が先生に、「それじゃ、君子の交なんてつまらんじゃありませんか。即ち何だか味がなくて、そうして水みたいだというんでは面白くないじゃありませんか」と言われて、先生が答えられなかったという話もあるが、これは淡とか水とかいうことの意味が分からんからであります。

淡というのは、そんなあっさりした味気ないという意味ではない。味の極致を淡という。甘いとか酸っぱいとかいうことを通り越して、何とも言えない味という。老子はこれを無の味と言うておるのです。それを淡という。何とも言えない、強いて言えば無の味、それは何だと言えば、実在するものでは結局水だ。万物は水から出たことは語承知の通りだ。人間の身体も八割は水だ。だから結局死ぬ時には、水が足らなくなるから、水ということになるんで、結局水が一番うまい。

私はいつか「師と友」に緑陰茶話というものを書いて、茶の説明をしたことがある。煎茶というのは三煎する。その第一煎で、良い茶の芽、それへ湯加減をよくして注ぐと最初に茶の中に含まれておる甘味が出てくる。その次にはタンニンの渋味を味わう。それから三煎して、カフェインの苦味を味わう。甘味、渋味、それから何とも言えない苦味、その上がつまり無の味、淡の味である。これを湯加減して味わい分けるのが茶の趣味、茶道である。

人間も甘いというのはまだ初歩の味です。あいつは甘い奴だという。これはまだ若い、初歩だ。だいぶ苦味が出てきたというのは、苦労して本当の味が出てきた。だから人間が大人になってくると、だいたい甘い物は好まなくなる。甘い物が好きなんていうのは、これはあまりできておらぬ。苦言、苦味を愛するようになる。そうなってくると何でも渋くなって、それから苦を愛し、淡を愛し、無という境地になる。

[新装版]活眼 活学(PHP文庫)

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 別の書籍では次のように書かれている。

『人、一字識らずして而も詩意多く、一偈(いちげ)せずして而も禅意多く、一勺濡らさずして而も酒意多く、一石暁(さと)らずして而も意多きあり。淡宕の故なり。』

人間は、文字の教養がなくても、況や学校なんか出なくとも人柄そのものが詩的である。参禅なんてやらなくとも禅客よりもずっと超越した妙境にある人もいる。酒を一滴も飲まないで、飲む人よりも飲酒の味・趣を豊かに持っている人もいる。一つの石の描きかたも知らないでも人間そのものに画意、絵心が豊かにある人もいる。どうしてかというと「淡宕の故なり」と締めている。「淡」とは「淡い」である。淡いとは味がない、薄味などと言っては「君子の交わりは淡・水の如し」などは、水のように味がないとなってしまう。実は甘いとも渋いとも言うに言えない妙味、これを「淡」という。「宕」は堂々たる大石がでんとして構えているということ。老人の茶飲み友達などは実は何とも言えぬ味のある友達ということで、至極の境地に至っている。その「淡い」であり、しかしそこに何とも言えないおおらかさ、強さ、逞しさを持っておるというのが「宕」、だから「淡宕」という言葉は実に味のあるいい言葉である。

 

 甘いとも渋いとも言えないなんとも言えない味わいを噛みしめるのが、味の極地の「淡」であり、その代表格が水とのこと。

もっとも記事に出てくる「水を好む若者」が「淡」の境地に至っているかと問われればそうではなく単に合理性や、ひと昔の「物がなかった時代」を経験していないので「水を買うこと」に抵抗感を抱かないからだと思います。一方で、炭酸を好むおっさんには、いい歳なんだから「淡」の境地に近づいてもらいたいと思いますが笑。

 

生きていることそのものを噛みしめる

さてこの「淡」を人生で考えるとどうなるのか。

苦いは辛い、甘いは楽しいなどと読み替えることができると思う。辛いも楽しいも一時的なものであるが、辛いはおいておいて、刹那的な楽しみだけを追い求める人生は、まだまだ甘いということではないのか。

 

最近、よくそういうことを考えている。楽しいことは、もちろん楽しい。友人と遊ぶでもいいし、美味しいものを食べるでもいいし、行楽地に出かけるでもいい。でもそういう一時的な楽しみだけを追い求めるのが人生で目指すべきものなのかな、となぜかこの頃考えるようになった。

刹那的な楽しみではなく、セミの音で夏の訪れに気づいたり、夕焼けの美しさにふと足をとめて見とれてしまったり、そういう日常の中での淡い出来事に、生きていることそのものを噛みしめる。それこそが生きる幸せではないかなとぼんやり考えている次第です。

 

まだまだ考え中のため、とりとめのない形ですが、ここらで失礼します。

ではでは。