思考の三原則 〜 長期的・多面的・根本的に物事を考える:安岡正篤の教えその2
安岡正篤という「人間学」を掲げる大正〜昭和時代の偉大な思想家・教育者・陽明学者がいます。終戦の詔勅の草案作成や「平成」の元号の考案者とも言われている大哲人で、政界・財界にも多くの影響力を持っており昭和最大のフィクサーとも言われている御仁です。
とあるきっかけがあり安岡正篤の書籍と出会った僕はすっかりその教えに魅了されまして、それ以降安岡正篤先生を心の師と仰いでいるとともに、令和の時代になったとしても安岡正篤先生の教えは変わらず僕らが正しく生きていく上の指針になると信じてやみません。
ということでこのブログでも先生の教えを紹介していこうと思い、本日はその第二回目です。なお前回の投稿はこちらをご覧ください。
物事を考える際の三原則
本日紹介する教えは、物事を考える際の三原則です。
その3つとは、
- 第一に、目先に捉われないで、出来るだけ長い目で見ること
- 第二に、物事の一面に捉われないで、出来るだけ多面的に、全面的に見ること
- 第三に、何事によらず枝葉末節に捉われず、根本的に考えること
というものです。長期的に、多面的に、根本的に考える。このスローガンだけでも十分に価値がありますがそれを説明している文章がなんとも味わい深く、かつ教えに富んでいるものですので、是非以下をお読みください。
長い目で見る
まずは第一の原則です。実際の書籍からの引用です。
それは第一に、ものを目先で見るのと、長い目で見るのと両方あるということ。目先で見るのと、長い目で見るのと、非常に違う。どうかすると結論が逆になる。ある人は非常に長い目で見る議論をしておる。ある者は目先で見る議論をしておる。これでは話が合いっこないですね。しかし我々は目先ももとより大事であるけれども、原則としては、やはりできるだけ長い目でものを見るということを尊重しなければならない。目先を考えるということは、うまくやったつもりでも、大抵の場合じきに行き詰まる。物を目先で考えないで、長い目でみるということ、これを一つの原則として、我々は心得ておかなければならん。
続く第二・第三原則にも通じますが、注目すべきことは、この教えがただの抽象的・概念的な教えではなく、実践的な教えであるということです。
つまり、単に「長期的目線で考えましょう」と言うだけではなく、議論を行う際に話が噛み合わないことの原因や、物事を実行する際の失敗要因にこの原則を当てはめているということです。
言っておきますが、安岡正篤先生は昭和時代の御仁です。その時代から「ある者は目先で議論をしている。ある人は非常に長い目で見る議論をしておる。これでは話が合いっこない」というメッセージを残していることは驚きとともに、人間はなかなか変わらないし、簡単には変われないのだなということに気付かされます。
多面的・全面的に見る
次に第二の原則です。
その次に、物を一面的に見る方と、多面的あるいは全面的に見る方とがある。これもよく心得ておかなければならん。物を一面的に見るのと、多面的あるいは全面的に守るのとでは、全然逆になることがある。どんな物だって一面だけ見れば必ず良いところがある。と同時に必ず悪いところがある。そして結論は出ない。ある者はあれはいい人だという。ある人は彼奴はいかんという。一面だけ見ておると結論は出ない。これを多面的に見れば見るほど、その人間がよく分かってくる。いわんや全面的に見ることができればはっきりと結論が出る。
一元論だけで議論をしていても意見がぶつかり合うだけで結論に至らない。これも極めて実践的ですね。
世の中見渡してみると、自分の立場や自分の言いたいメッセージありきで物事を眺め、一面的な思考しかしない人のなんと多い事でしょうか。そうではなく、複数の立場があることを認め、それぞれの立場から物事を眺め、多面的・全面的に検討した上で意思決定しなければなりません。
また安岡正篤先生の教えは、要所要所で次のような含蓄のあるエピソードが差し込まれるので、これがまた面白さを増大させます。
よく大所高所に立ってというが、大所高所に立ってということは、物を全面的に見るということだ。大臣のことを何々相、文相、蔵相なんていうが、この「相」という字がそれをよく表しておる。これは木偏に目と書いてあるが、本当はこの目は木偏の上に買うのが一番自然なのです。木の上に登って高い所から見る。森蘭丸みたいに高い所から見るという字だ。しかし縦に続けるとあんまり長くなるから、「木」の右へ「目」を持ってきたのだ。普通の人間のように目先であるいは低いところで見ないで、大所高所に立って見るということが大事だ。つまり国家の政策というものを高所大所から立てる、国家内外の情勢を全面的に見るということだ。それができないで、文字通りに皆木から離れてしまって、対立するからろくろく分からない。これは第二の原則です。
根本的に見る
最後に第三の原則です。
第三には、物を枝葉末節で見るのと、根本的に見るのとの違い。枝葉末節に捉われる場合と、根本的に深く掘り下げて考える場合、往往にして結果が正反対にもなる。しかしこれもまた同じことで、枝葉末節で見たのではする分かるようであっても、実は混乱するばかり、矛盾するばかり、やはりできるだけ根本に帰って見れば見るほど、物の真を把握することができる。
『論語』に「本立って道生ず」というておる。孟子もまた「まず大なるものを立つ」と言うておるが、難しければ難しいほど、根本的に掘り下げて考えるということを心掛けなければならん。
これもとても大事ですね。
個人的にはこの根本的に考えるというのが一番難しいと思います。なぜならば、ここまでの長期的は時間軸、多面的は三次元的な軸から考えることができますが、根本的かどうかは分かりやすい軸がありません。
また難しいのは、ある人にとっては枝葉末節かもしれませんが、別の人にとっても幹の場合もあります。例えばマネジメント層にしてみれば細かすぎてどうでもいい話だけれども、その仕事を担当していて一生懸命実務に勤しんでいる人にはまさにそれこそ全てということ。こういうケースは良くありますよね。
そのため、最後の根本的に考えるとは、長期的・多面的に考えることが土台で、その上でその検討の目的やゴール、インパクトなども考慮しながら考えることだと理解しています。
安岡正篤先生は、この三原則の活用方法について次のようにも説いています。
そこで最初に我々が注意しなければならんことは、この問題を我々は長い目で見て議論するか、多面的・全面的に見て議論するか、根本的に見て議論するかということと、この議論は枝葉末節的の議論である、一面的な議論である、目先の議論でありはせんかということとを区別すること。これを区別してかからんと、徒らに混乱したり、もどかしがったり、いろんなことで結論が出ない。
まずは理解して区別しなければならないということですね。
しかしそれだけでないと言いますか、 安岡正篤学の根底にある陽明学では「知行合一」、つまり知識と行為の一体化、転じて本当の知識は実践を伴わなければならないという考えがあり、続く文章でどう実践すべしかにも言及しています。
この物差しを諸君が持っておると宜しい。そうすると自分の言うことが、はてな、今俺の考えておることは、どうも目先の議論だわい、これは甚だ一面論だ。これはどうも部分的な、よう留守に枝葉末節論だ。彼の言うておることは、なるほどもっともなことだけれども、これも一時的の観察、一面論、枝葉末節論だ。俺の考えておるのはもう少し長い目で見た観察だ。もう少し多面的・全面的には俺は考えておる、もう少し根本的に考えておるんだ。だからあれとは議論しても合わん。議論しようと思ったら、向こうとこちらの筋を通すことから始めなければいかんというようなことが明らかになる。
さりげない文章ですが、僕はまず「今俺の考えておることは」と、相手への応用ではなく、自分自身への自省から始まることに感動を覚えます。人に文句を言う前に自分自身を振り替えれという強烈な教えです。
手前に登場した論語の、本立って道生ずという言葉しかりですね。またこの考え方は洋の東西を問わず重要で、世界でもっとも読まれている自己啓発本の1つである「7つの習慣」でも公的成功の前に私的成功をしなければならないと説いています。
まず自分自身を顧みて、その後相手がどうかを考える順番は忘れてなならない教えですね。
三原則の前の大前提
さて、ここまで三原則を説明してきましたが、実はその前に1つ大前提があります。それは、何事においても当事者意識を持って、自分事として考えなければならないということです。
今までなんども話したことがあるが、問題を自分のつきつめた実践の問題、当為の問題、我いかになすべきかという、自分の問題として取り扱う場合と、人の問題として取り扱う場合でも、非常に趣が違ってくる。例えば農村問題にしても、農村に生きる自分としていかにあるべきかという場合の心得や考え方と、一般の農村、つまり他人としての農民のことを考え論ずる場合とでも、これは非常に違う。その点も混同すると話が合わぬことになる。そういう大前提もあるわけです。
そしてまとめとして、以下のように締めくくっています。とても力強いエールです。
そこで、一番大事なこと、いわゆる長い目で見る場合、全面的に言う場合、あるいは根本的に言う場合には何か必要かというと、やはり自分の問題として考える、我いかに行くべきやという問題と、それから人間というものは進歩向上してやまざるべきものであるから、やはりいかにしてエリートを作るか、自分がどうしてエリートになるかということ、この問題を一番尊重しなければならん。
極端な面白い例を言うと、どんなに環境が悪くても、施すべき策がないほど行き詰まっておっても、これを自分の問題として、あるいは独自の問題、エリートの問題として考えれば、いくらでもその道が開ける。とたえその人自身がエリートでなくても……だ。
今回の引用は、活眼活学という文庫本に掲載されています。
興味を覚えた方は是非手に取ってみてください。
ではでは。