点灯夫のように生きよう 〜 外資系コンサルタントの小さなつぶやき

点灯夫のように生きよう 〜 外資系コンサルタントの小さなつぶやき

とある外資系コンサルティングファームで働いているアラサーのつぶやきです

「学び」と「考える」の両方がなければならない:論語に学ぶその3(学んで思わざれば則ち罔し。思うて学ばざれば則ち殆し)

コンサルティング業界は一般的に優秀な人材が集まる場として認識されている。実際その通りだとは思うし、いわゆる「つかえないおじさん」的な社員はいない(そもそも40代以上はぐっと減り、役員でもない限り50代はいない業界ということもあるが)。

が、しかし「過去の経験だけで食っているな」「特定のソリューション知識をただ単に切り売りしているだけだな」と感じる人もいるし、また「もっともらしいことを言っているけど論理的な裏付けがないな」と思ってしまう人も、少なからずいる。
ただそれでもクライアント企業に対して「売れて」いるわけであるし、人材の質、より正確に言えばランクに対する人材の質のバラつきはチーム編成でカバーしているように見えるし、それが「組織力」なのかなとも考える。

 

さてそのように一定以上の能力があれば、組織である以上は会社としての「使いよう」、本人としての「生きよう」があるべきだが、そのような人にはなりたくないと思うのは当然のことだろう。

 

そうならないために、私には常々気を付けている言葉がある。

 

子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。

学んで思わざれば則ち罔し(くらし)。思うて学ばざれば則ち殆し(あやうし)

 

非常に単純明快な言葉であるが、「学んでも自分の頭で考えなければ分かったとは言えない。一方で、自分勝手に考えるだけで学ぼうとしないのは危険なことだ」という意味である。

 

これはまさにその通りだ。

知識は活用するためにあるのであり、ただインプットを増やすだけでは本質的な意味はない
また、流れの早い現代においては、新しく学んだ最新知識も数年したら陳腐化してしまうわけで、学んだ知識にどう意味があるのかであったり、それがその他の知識とどう関係しているのか、つまり体系的な整理がされなければ、ただの一過性の知識として終わってしまう。

 

関連:

lightingup.hatenablog.com

 

さて一方で、自分の頭で考えるだけ、つまり学びによる裏付けのない決め打ちは、、、危ない

あまり政治的な話をするのは好きではないのだが、右派にせよ左派にせよ、ここ数年の発言の「目立っている」人の意見を聞いてみると、どうもただの思い込みや、ある一面だけから物事を語っているのではないか、と思うことが非常に多い。

コンサルティングの現場ではクライアント企業に対して提言を行うのが仕事であるが、それもやはり「ただのアイディア」「単なる思い付き」では意味がないというか、クライアント企業支払っている高いフィーを正当化することができない。そのため、いわゆる経営のセオリーや、業界内外の最新の動向、クライアント企業内部のFactを集め、それをフレームワークを用いて説得力のある形で説明するのである。自身の提言がクライアント企業の意思決定を左右するわけであるから、このプロセスが必要不可欠なのである。

がしかし、このプロセスをどこまで突き詰めるかはどうしても個人差が出てしまうし、また時間的制約もあるので、ベターの中のベターの表現になってしまう面もあるのだが、またそれは別の話・・・

 

なお自分にとっては、このブログもまた罔く(くらく)ならないための、そして殆く(あやうく)ならないための手段である。

文字に表すのは、学んだものを自分の中に定着させるためにも、また考えたことを整理するためにも、最適な方法だと思う。

 

最近プロジェクトが忙しくブログを書くペースが落ちているのだが、なんとか続けていきたいものだ。

ではでは。

 

※過去の論語シリーズはこちら 

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瀧本哲史氏を偲ぶ書評:僕は君たちに武器を配りたい

昨日2019年8月16日に、スタートアップ企業を対象としたエンジェル投資家、作家、京都大学で「起業論」を教える准教授として知られる瀧本哲史氏の突然の訃報が流れました。lightingup.hatenablog.com

 

自分自身の話になりますが、実は自分は瀧本氏の教える京都大学出身でして、一般教養で瀧本先生の授業を受けていたこともあり、また先生の書かれた書籍「僕は君たちに武器を配りたい」は新卒での入社先にベンチャー企業を選んだ自分の背中を強く押して、そして支えてくれた一冊でもあり、今回の訃報は本当に残念でなりません。

 

学生時代の自分を支えてくれた一冊

瀧本先生の教えや書籍に書かれていることは、まさに若者たちへのエールそのものでした。「僕は君たちに武器を配りたい」が出版されたのは2011年。おそらく、いわゆる高学歴の学生たちの就職先の候補の1つにベンチャー企業が挙がるようになったのは、それぐらいの年だったのではないでしょうか。

自分が就職活動を行なっていた時期もまさにその時代で、関西にいてもようやく少しずつ東京のベンチャー企業の情報が入ってくる状況でした。しかしそれでも就職先としてベンチャーを選択する人はまだまだ少数で(実際、同じ大学からベンチャー企業に就職する人は、身の回りでは誰もいませんでした)、自分で考え下した結論とはいえ、不安も多かったことを覚えています。

そんな時に、自分を支えてくれたのが、瀧本先生の書かれた「僕は君たちに武器を配りたい」でした。

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今回は、本棚から久々に引っ張り出した本書を先生を偲びながら読み直し、そこに書かれたエッセンスを紹介していきたいと思います。

 

「投資家的な生き方」のすすめ

冒頭部分から、いくつか印象的なフレーズを抜粋します。

本書は、これから社会に旅立つ、あるいは旅立ったばかりの若者が、非常で残酷な日本社会を生き抜くための、「ゲリラ戦」のすすめである。2011年現在、日本の経済は冷え切っており、そこから回復するきざしはどこにも見えない。

(中略)

私が本書を執筆することにしたのは、こうした厳しくなる状況の中で、一人でも多くの学生や若い人々に、この社会を生き抜くための「武器」を手渡したいと考えたからである。日本がこのような経済的に厳しい状況に陥り、若者の未来に希望が感じられない世の中になったことをいつまでも嘆いていても仕方がない。それよりもなすべきことは、このような厳しい世の中でもしたたかに生き残り、自ら新しい「希望」を作り出すことである。 

本書は、一人の投資家である私がこれまで実践してきた「投資家的な生き方」のすすめである。

(中略) 

大切なのは、不労所得を得ることではない。投資家的に考える、ということなのだ。一攫千金を狙うのではなく、自分の時間と労力、そして才能を、何につぎ込めば、そのリターンとしてマネタイズ=回収できるのかを真剣に考えよ、ということなのだ。

書籍の中でも書かれているのですが、モノが急速にコモディティ化している今の世の中では、今まで行なっていた方法論や、「寄らば大樹の陰」の思考や、皆が画一的に行なっている資格の勉強をしても淘汰されてしまうだけです。コモディティ化した市場で一生懸命勝負しても、徹底的に買い叩かれるだけだからです。

そうではなく、先生は「スペシャリティになれ」と説きます。

これからの日本では、単なる労働者として働く限り、コモディティ化することは避けられない。それでは、どうすればそのようなコモディティ化の潮流から、逃れることができるのだろうか。それには縷々述べてきたように、人より勉強をするとか、スキルや資格を身に着けるといった努力は意味をなさない。

答えは「スペシャリティ」になることだ。

スペシャリティとは、専門性、特殊性、特色などを意味する英単語だが、要するに「ほかの人には変えられない、唯一の人物(とその仕事)」「ほかの物では代替することができない、唯一の物」のことである。

 

スペシャリティの6タイプ

コモディティ化せず、資本主義社会の中で安い賃金でこき使われずに、主体的に「稼ぐ」人間になるためには、次の6つのタイプのいずれかの人種になることが必要だと先生は説いています。

 

  1. トレーダー:商品えお遠くに運んで売ることができる人
  2. エキスパート:自分の専門性を高めて、高いスキルによって仕事をする人
  3. マーケター:商品に付加価値をつけて、市場に合わせて売ることができる人 
  4. イノベーター:まったく新しい仕組みをイノベーションできる人
  5. リーダー:自分が起業家となり、みんなをマネージしてリーダーとして行動する人
  6. インベスター=投資家:投資家として市場に参加している人

 

しかしその中でものを流してサヤを抜くだけの「トレーダー」と、時代の流れによって強みが陳腐化してしまう「エキスパート」 は価値を失っていく可能性が高く、したがって、目指すべきは「マーケター」「イノベーター」「リーダー」「投資家」の4種類となります。

もっとも、いずれかの1つになるのではなく、それらの使い分けができることが求められます。

望ましいのは、一人のビジネスパーソンが状況に応じて、この4つの顔を使い分けることだ。仕事に応じて、時にはマーケターとして振る舞い、ある機会には投資家として活動していく。そのような働き方が、これからのビジネスパーソンには求められる

 

投資家として生きる本当の意味

本書ではこの4つのタイプそれぞれ章分けして詳細が書かれていますが、一番分量が多いのは、最後の「投資家」です。これは、先生自身が投資家だという側面もありますが、他の3つのタイプと比べて「分かりにくい」「一般的に知られていない」からだと私は考えています。

では、投資家とは、そして投資家として生きるとはどういうことなのでしょうか。本書に書かれていることをいくつか抜粋します。

「投資」とは、畑に種を蒔いて芽が出て、やがては収穫をもたらしてくれるように、ゼロからプラスを生み出す行為である。投資がうまくいった場合、誰かが損をするということもなく、関係したみなにとってプラスとなる点が、投機とは本質的に異なる。

投資家として生きるということは、「資本を所有して、それを自分のために適切な機会に投資する」ということだ。

この「資本」とは、お金だけを意味するのではないことに、まずご注意いただきたい。例えば自分のスキル・能力、時間も資本であるし、人間関係だって資本である。そのような様々な資本を、適切なタイミングで適切に意思決定し投資する。それが投資家として生きるということであり、瀧本先生が若者たちに伝えたいメッセージである。

 

投資家として生きるための武器

 瀧本先生は、そのために必要な「武器」を本書でいくつも教えてくれている。

投資の機会はなるだけ増やす

投資家的に生きるうえで必要なのが、「リスク」と「リターン」をきちんと把握することである。シリコンバレーの投資家たちはリスクを回避することよりも、リスクを未婚でも投資機会を増やすことを重視する。投資という行為は、何よりも「分母」が大切だからだ、ひとつの案件にだけ投資するのは、カジノのルーレットで一箇所だけにチップを置くようなものなのだ。重要なのは、できるだけたくさん張ることなのである。

自分で管理できる範囲でリスクをとる

投資家的な生き方をするうえでは、投資の機会はできる限り増やすのが望ましい。ただし注意すべき点がある。それは「自分で管理できる範囲でリスクをとれ」ということだ。

投資は長期的に考える

バフェットから学べることで何より大切なのは、「短期的な儲けではなく、長期的な視点で意味のあることに投資せよ」ということである。また同時に「人を見て投資せよ」という投資の鉄則もバフェットから学ぶことができるだろう。

ニュースの裏を読む

投資家的に生きるために絶対に必要なのは、「真実」に気づく「ニュースの裏を読む力」である。新聞などで何かしらの情報を見た時に「この会社はこれから伸びそうだな」と感じたら、自分と同じことを考える人間が世の中に数万人から数十万人はいると思ったほうがいい。その時点で、すでにあなたの考えは「コモディティ」になっているのである。

調べる一手間を惜しまない

世の中の多くの”残念な人”は、「自分で調べる一手間」をかけようとしない。しかし投資家として生きるのであれば、あらゆることについて自分で調べてみて、考えて結論を出すことが必要となる。

「自分の頭で考える」ことが、投資家的に生きることの第一歩となるのだ。

未来を予想しながら身の回りのインサイダー情報にかける

株式投資ではないインサイダー取引は、100%違法ではない。具体的にいうと「公開・非公開は問わず、この会社は伸びると確信したら、株式以外の投資をすればいい」ということである。

(中略)

あなたが今日の営業先として向かうベンチャー企業が、もしかしたら3年後には上場しているかもしれない。その逆に、無理難題を言ってくる大手クライアントが、来年には倒産しているかもしれない。未来を予想しながら、その未来に自分自身が関わっていくことが投資家的に生きる道なのだ。

(中略)

これから生き残っていくのは、個人も会社も、そうした「投資」をきちんと行なっていけるかどうかにかかっている。行き先が見えにくい時代だからこそ、ある時点でのひとつの投資活動が、その後の自分の未来を大きく変えるのである。

 

瀧本先生からのエール

久々に先生の書籍を読み進め、胸の中に熱いものが込み上げてきました。多感な大学生の時代に、先生の授業や書籍を通じ、先生の教えに触れることができたのは人生における財産です。

最後に、本書の最終章「ゲリラ戦のはじまり」から、若者へのエールを抜粋し紹介します。

時には周囲から「ばかじゃないのか」と思われたとしても、自分が信じるリスクを取りにいくべきだ。自分自身の人生は、自分以外の誰にも生きることはできない。たとえ自分でリスクをとって失敗したとしても、他人の言いなりになって知らぬ間にリスクを背負わされて生きるよりは、100倍マシな人生だと私は考える。

社会全体のパイが小さくなっているときに、才能がある人、優秀な人は、パイを大きくすること、すなわちビジネスに行くべきだ。パイ全体が縮小しているときに、分配する側に優秀な人が行っても意味がない。誰が分配しようが、ない袖は振れないからだ。社会起業家とか公務員という選択は、社会に富が十分にあって分配に問題がないときなら意味があるだろう。だが分配する資源がなくなりつつあるのが、今の時代ではないだろうか。

人生は短い。愚痴をこぼして社長や上司の悪口を言うヒマがあるのなら、ほかにもっと生産性の高いことがあるはずだ。もし、それがないのであれば、そういう自分の人生を見直すために自分の時間を使うべきだ。

これからの混沌とした社会の中で、一人でも多くのゲリラ戦を戦おうとする同志に、これからも私は武器を配っていきたいと思う。

 

これらの言葉に、いったいどれだけ勇気付けられたことか。先生には感謝しかないです。

そして学生時代に先生に武器を配っていただいた身として、これからもその武器を使い続けていくことが、先生への一番の恩返しだと改めて思った次第です。

 

これからも、戦い続けよう。

 

ではでは。

 

僕は君たちに武器を配りたい

僕は君たちに武器を配りたい

 

訃報:エンジェル投資家兼人気作家の瀧本哲史氏が死去

突然の訃報です。

エンジェル投資家・京大客員准教授・作家の瀧本哲史氏が47歳という若さでお亡くなりになられたとのニュースが流れており、驚きを隠せません。

www.huffingtonpost.jp

 

東京大学卒。同大大学院助手を経て、マッキンゼーという輝かしい経歴だけでなく、マッキンゼー卒業後はスタートアップに投資し支援する「エンゼル投資家」として活躍しながら、作家としても「僕は君たちに武器を配りたい」「武器としての交渉思考/決断思考」「戦略がすべて」などのマッキンゼー投資家としての経験、そして瀧本氏独特の鋭い洞察と論理展開に基づく人気のビジネス書を数多く執筆するなど、若くして幅広く大活躍されていた方だけに、非常に非常に残念です。

彼の著書は大好きで概ね読んでいるのですが、いずれも「元コンサルタント本」にありがちなスキル紹介の範疇に留まらず、主に「現代社会をどのように生き抜くべきか」というテーマに対し、普段の私たちではなかなか持てない「投資家」としての視点を踏まえて、新しい気づきや、自身の行動変革につながる示唆を与えてくれるものばかりでした。

そういえば最近瀧本氏の新しい書籍でないな、と思っていたのですが、、、人知れず闘病生活を送っていたのですね。もっともっと彼の叡智に触れたかった。心から、心からご冥福をお祈りいたします。

 

以下、瀧本氏の書籍をいくつか紹介します。近日中に書評も書こうと思います

 

2019/8/17 更新:書評も書きました

lightingup.hatenablog.com

 

僕は君たちに武器を配りたい

僕は君たちに武器を配りたい

 

 

武器としての決断思考 (星海社新書)

武器としての決断思考 (星海社新書)

 

 

武器としての交渉思考 (星海社新書)

武器としての交渉思考 (星海社新書)

 

 

君に友だちはいらない

君に友だちはいらない

 

 

戦略がすべて (新潮新書)

戦略がすべて (新潮新書)

 

 

読書は格闘技

読書は格闘技

 

 

ミライの授業

ミライの授業

 

 

ではでは。

 

物事の本質を捉える:お盆に考える「色即是空 空即是色」

お盆なので仏教ネタを。

言わずと知れた有名な「般若心経」の中の、これまた有名な一説である「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」。このフレーズは聞き覚えがあるという方も多いのではないだろうか。

 

意味としては、まず漢文を訓読文にすると、
「色はすなわちこれ空」

「空はすなわちこれ色」

となり、もう少し平たく言えば、

「色とは、空」

「空とは、色」

となる。

そのため、「色即是空 空即是色」を理解するためには、「色」と「空」とは何かを知る必要がある。

 

「色」とは何か。「空」とは何か

Wikipediaを見てみると、次のように書いてある。

色(ルーパ)は、宇宙に存在するすべての形ある物質や現象を意味し、空(シューニャ)は、恒常な実体がないという意味。

ja.wikipedia.org

もう少し分かりやすく書くと「色」とは「目に見えるもの」「物質的なもの」「形あるもの」、つまりこの世の様々なモノや現象を表している。

一方で「空」は少し難しい。文字通り「から」すなわり欠如の意味なのだが、空っぽや無の意味だけかというと、それは少し違う(そうだとすると、「色即是空」も「すべてのものは無である」となってしまう)。そうではなく「空」とは、実体がないこと、つまり「唯一不変の存在はこの世にはない」ということを表す言葉である。

少し見方を変えて説明すると、形あるものはいつか必ず無くなるが、形があるものにはそれをそのものたらしめている「本質」があり、それを「空」と呼ぶという考え方もある。また目に見えない空を「原子」と見立てて、物理学や量子力学と紐づけて説明するケースもあるようだ。

 

色即是空とは

さて、色即是空に戻ろう。色即是空とは「色」=「空」だと説明したが、上記の「色」「空」の解説を踏まえると、目に見えるすべてのもの(色)は、実体のないもの(空)である、という意味になる。

うーん、これだけだと分からない。

 

もう少し噛み砕いてみよう。

人は目の前のもの、目に見えるものを、「それが全て」と考えがちだ。

だが、いつまでも普遍な物質などなく、目の前の物はいつかはなくなる。

しかし、それでは「全ては無」かというとそうではなく、その物体としての意味合い・本質は状態として確かにそこにある。それが色即是空であると理解している。

誤解を恐れずに言えば、物事の本質を見よ、というのが色即是空ではないだろうか。

 

空即是色とは

では続く空即是色とはどういう意味か。

形あるものはすべてのものは空=実体のないものである、というのが色即是空であるが、その反対の空即是色は「実体のないものが全てを作り出している」「物事の本質は実体がないからこそ、どのようなものにでもなれる」といったところであろうか。

 

方丈記で次のように書かれている。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。

星の王子さまではこうだ。

ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない

君は、夜になると、星空を眺める。ボクの星は小さすぎるから、どれだか教えてあげられないんだけど、かえって、その方がいいんだと思う。ボクの星っていうのは、君にとっては、あのたくさんの星の中の一つ。だから、どんな星だって、君は星を見るのが好きになるだろう。星たちは、みんな君の友達になる。
そうして、ボクは君に、贈り物をするんだよ。夜、星空を眺めた時、そのどれかの星にボクが住んでいる。だから、そのどれかの星でボクが笑っているんだ。だから君にとっては、まるで星みんなが笑っているみたいになる。
君には、どこに行っても笑いかけてくれる星空があるってことなんだよ

キリスト教のミサの中の信仰宣言(Credo)ではこうだ。

factorem caeli et terae, visibilium omnium et invisibilium.
すべての目に見えるものと見えぬものの創り主を(私は信じます)。

鋼の錬金術師で主人公のエドは次のように悟る。

全ては目に見えない、大きな流れの中にあるんだ。それを宇宙っていうのか世界っていうのかは分かんないけど、そんなでっかいものからすりゃあ俺もアルもアリみたいなもんさ。流れの中の小さな一つ、全の中の一に過ぎない。だけど、その小さな一が集まって全が存在できる。この世は想像もできない・・・

 

物後の本質は空であるとともに、その空がそのまますべてのものの姿であるということ。

ビジネスの文脈で言えば、目の前の物だけに振り回されずに本質を見極め、そして本質を忘れずに追求すればどのような結果をも得ることができる、というところだろうか。

 

なかなか哲学的な難しい言葉ではあるが、お盆に考えてみるにはちょうど良いテーマだったかと。

ではでは。

※上記、個人的に調べたり解釈した結果なので、本当の仏教の教えと異なる面がもしあれば、大変失礼しました。

 

書評:ニュータイプの時代 〜 「意味」の重要性の増す時代を生き抜くために

面白いブログ記事があった。GoogleAppleなどの新興IT企業がそれほど戦略コンサルティングファームを利用しないのはどうしてか、という考察だ。

digitalbizpro.hatenablog.com

 挙げている理由は3点。

  1. 戦略自体の重要性が低い
  2. 実行力(言い換えれば戦略ではなく「戦術力」)に重きを置いている
  3. 戦コンのケイパで欲しいのは「地頭の良さ」だけで、それなら卒業生を雇った方が早い・安い

この戦略自体の重要性が低いというのは、記事でも言及されているがGAFAはすでに優れた戦略を持っているという面と、新興IT企業たちにとって重要な「技術の栄枯盛衰」の見極めをコンサルティングファームが得意としていない、とのこと。

これはまさにその通りだと思う。右に習えで同じことをより効率的に、早く、安く行なったり、合理的にすべきこととそうでないことを判断できた時代は、コンサルティングファームのような「客観的視点」からのアドバイスは非常に有意義であっただろうが、混沌としている現代社会に置いて、旧態依然としたいわゆる古い日本企業が苦しんでいるのと同様に、コンサルティングファームも変わらなければならない(よって今どこのファームもテクノロジーやデジタル領域に重点を移しつつある)。

 

そのような時代、何を考えどう行動していけばよいのか。その一つの考え方として優れた書籍があったので紹介したい。元BCGの山口周氏の書かれた「ニュータイプの時代」という書籍だ。

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本書では、徹底して「これまで活躍してきた人材要件=オールドタイプ」と「これから活躍する人材要件=ニュータイプ」を端的に対比している。

その一例は以下の通りだ。

オールドタイプ

ニュータイプ

正解を探す

問題を探す

予想する

構想する

KPIで管理する

意味を与える

生産性を上げる

遊びを盛り込む

ルールに従う

自らの独特観に従う

1つの組織に留まる

組織間を越境する

綿密に計画し実行する

とりあえず試す

奪い、独占する

与え、共有する

経験に頼る

学習能力に頼る

 

オールドタイプが通用しなくなった背景

細かな内容は書籍をぜひ読んでいただきたいが、どうしてオールドタイプが通用しなくなったのかの背景を本書から抜粋しながら紹介していきたい。

山口氏は6つのメガトレンドが原因だと本書の中で主張している。

  1. 飽和するモノと枯渇する意味
    私たちは「モノが過剰で、意味が希少な時代」を生きています。「モノ」がその過剰さゆえに価値を滅殺させる一方で、「意味」がその希少さゆえに価値を持つ時代というのが21世紀という時代です
  2. 問題の希少化と正解のコモディティ化
    モノが過剰に溢れかえる世界にあって、私たちは日常生活を送るにあたって、すでに目立った不満・不便・不安を感じることはなくなっています。これはつまり、今日の日本ではすでに「問題が希少化」していることを示しています
  3. クソ仕事の蔓延
    そもそも、本来の仕事が「有用なモノを作る」あるいは「重要な課題を解決する」ということであれば、モノが過剰にあり、問題が希少となっている社会では、仕事の本来的な需要は減少するはずです。しかし、私たちの労働時間は100年前とほとんど変わっていません。
    (中略)結論から言えば、私たちの多くは実質的な価値や意味を生み出すことのない「クソ仕事」に携わっている、ということになります
  4. 社会のVUCA化
    VUCAとは、Volatile(不安定)、Uncertain(不確実)、Complex(複雑)、Ambiguous(曖昧)という今日の社会を特徴付ける4つの形容詞の頭文字を合わせた言葉です。これらの4つの特徴が、現在の私たちを取り囲む状況であることに反論できる人はいないでしょう
  5. スケールメリットの消失
    1つ目の要因として指摘したいのが限界費用のゼロ化です。その巨大さゆえに有していたアドバンテージ、つまり「スケールメリットによる限界費用の低さ」がもはや成立しなくなります。
    2つ目の要因として指摘しなければならないのがメディアと流通の変化です。メディアや流通のありようは大きく変化し、サブスケールの個人事業主が、各々の関心や意図、求めている「意味」に応じて精密にコミュニケーションをとることが可能になりました。
  6. 寿命の伸長と事業の短命化

    多くの人が現役として働く期間の方が、企業の平均寿命よりも、ずっと長いという時代がやってきてしまいました

     

企業の停滞を招いている理由はビジョンが足りないことだ

いずれも納得する内容である。特に前半の2つ。

多少の不便さであったり、少子高齢化という世の中的な大きな問題は残っていはいるが、世の中の大抵の課題はすでに解消されてしまった。その結果行き着いた先が、ガラパゴスと揶揄される日本メーカーであろう。モノの本質的な課題解決能力では差がつかなくなってしまったので、やたら無意味にマイナスイオン効果を付けたりしている。

そういう時代にあっては、目の前の課題を粛々と片付ける優等生タイプは相対的に重要度が下がり、ビジョンを元に、「どうあるべきか」から逆算して解くべき課題を見つけ出す人が重宝されるようになる。

山口氏は書籍内で次のように述べている。

ビジネスが「問題の発見」と「問題の解消」という組み合わせで成り立っているのであれば、今後のビジネスではボトルネックとなる「問題」をいかにして発見し定期するのかがカギになります。そして、この「問題を見出し、他者に提起する人」こそがニュータイプとして高く評価されることになるでしょう

問題解決の世界では、「問題」を「望まし状態と現在の状態が一致していない状況」と定義します。「望ましい状態」と「現状の状態」に「差分」があること、これを「問題」として確定するということです。
したがって「望ましい状態」が定義できない場合、そもそも問題を明確に定義することもできないということになります。つまり「ありたい姿」を明確に描くことができない主体には、問題を定義することができにあ、ということです。

私たちは「ありたい姿」のことをビジョンと表現しますが、つまり「問題が足りない」というのは「ビジョンが不足している」というのと同じことなのです 

これは、多くの企業がイノベーション、あるいはオープンイノベーションを目指すもうまくいかない理由にも当てはまる。多くの企業が、ビジョンを実現するためではなく、イノベーション自体が目的となってしまっているのだ。山口氏の指摘は痛烈だ。

現在の多くの組織では、そもそも「解答を出すべき問題」が明確になっていないことが多い。解決したい課題が不明確な状態で「何か儲かりそうなアイデアはありませんか」とお見合いを繰り返している、というのが多くの企業におけるオープンイノベーションの実情になっています。これは典型的なオールドタイプの思考モデルというしかありません。共感できる課題設定もないままに、いくら外部からアイデアやテクノロジーを募ったところで、大きなインパクトが生まれるわけがありません

 冒頭にGAFAに戻ると、どこの会社も事業を通して実現した社会、ビジョンが明確である。また低迷せずに頑張っている日本企業の一部もビジョンが明確なことが原動力になっているケースは目にする(なお曖昧なビジョンでうまくいっている会社もあるが、それれは過去の成果で培った貯金を使っているだけだ)。

これは昨今流行っている言葉を借りると「Purpose」と言い換えることもできると思う。Purpose、つまりなんのために存在しているのか。Purposeが明確な会社は仕事の意味も明確となり、従業員の目指す方向も一致するし、また優秀な人材も集まってくる。

 

参考:

lightingup.hatenablog.com

 

このように、本書では オールドタイプ vs ニュータイプ という切り口で、「問題」が希少化し「意味」の重要性の増す時代にどう生き抜くべきか書かれている。コンサルティングファームに務める身としても、どうしてもコンサルタントはオールドタイプに寄りがちであるので、この視点は忘れずに日々の仕事に向き合っていきたい。

ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式

ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式

 

 

ではでは。

自分の強みを知る方法:ドラッカーのフィードバック分析とストレングスファインダー

これまで行なってきた系統のプロジェクトとまったく異なる性質のプロジェクトにチャレンジすることになり、最近これまで以上に忙しい日々を過ごしてる(そのためブログ更新頻度も著しく低下してしまった)。

だが幸いにも、キャッチアップというか、新しいことを学ぶのは好きであるとともに得意なので、なんとか勘所を掴めてきたところである。

 

そこで、ふと思った。

強みを活かす人生と、弱みを克服する人生、どちらの方が満足のいく人生なのだろうか。

 

基本的には強みを活かすことが大事

一般的には、強みを活かすことが大事だとされているのではないか。ドラッカーも次のように強みを活かすことの重要性を様々な言葉で語っている。

何事かを成し遂げるのは、強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない。できないことによって何かを行うことなど、到底できない。

成果をあげるエグゼクティブは、人間の強みを生かす。彼らは弱みを中心に据えてはならないことを知っている。成果を上げるには、利用できるかぎりの強み、すなわち同僚の強み、上司の強み、自分自身の強み、を使わなければならない。強みこそが機会である。強みを生かすことが、組織の特有の目的である

人は強みによって雇われる。弱みによってではない。  

例えば、上記の「新しいことを学ぶのは好き」というのは、明らかに自分の強みだと自分自身で認識している。またチャレンジ精神や積極性、ポジティブな考え方もまた、自分の強みだと思っている。

そういった特性があるので、新しい仕事に対しても臆することなく挑戦ができるのだと理解している。

 

弱みも把握はしておいた方が良い

では弱みはどうすべきなのか。再びドラッカーの言葉を借りると、彼はこのように述べている。

強みのみが成果を生む。弱みはたかだか頭痛を生むくらいのものである。しかも弱みをなくしたからといって何も生まれはしない。弱みをなくすことにエネルギーを注ぐのではなく、強みを生かすことにエネルギーを費やさなくてはならない。

弱みをなくしたからといって何も生まれはしない。これは金言だろう。

限られた人生、自分の凸凹のうち弱みを克服するのにエネルギーを注いでなんになるのか。帰って強みを伸ばすリソースを失い、平均的な平凡な人生になってしまうのではないか。

 

しかし一方で、弱みを理解しておくことは大事であろう。

仕事であれ、地域社会の活動であれ、ボランティアであれ、または家庭の営みでれ、一人で何から何まで行わなければならないというシーンは極めて限られる。そしてその集団に集まる人はそれぞれ異なる性質をもっているわけであり、であるからこそ、互いの強みと弱みを理解し、互いに弱みを補い合い、強みを活かしていくことが重要である。

近年「ダイバーシティ」や「インクルーシブ」という言葉が会社経営の文脈でよく聞かれるようになったが、これは「弱みを補い合い、強みを活かし合う」という人間集団の本質的な営みだと私は理解している。

 

どのようにして自分の強みを知るのか

では、自分の強みはどのように知ればよいのか。

人間、自分の弱み、嫌なところは目がいってしまうが、強みにはなかなか気づかないことがある。これは謙虚な日本人気質も影響しているかもしれないが、個人的には、自分自身の強みは当たり前すぎて気がつかないことが原因ではないかと考えている。

例えば「集中して勉強できるけど、人見知りでなかなか喋れない」という人と「誰とでもすぐに打ち解けられるけど、机の上で長時間何かに集中するのが苦手」という人がいるとする。お互い、得意なことは何も意識せず自然とできていることであるが、自分自身だけで考えると、それが強みだとはなかなか気がつかない。客観的に眺めれば、それぞれの強みがよくわかるのだが・・・。世の中、こういうことは多いのではないだろうか。

 

さてどのように自身の強みを知るかであるが、何度も登場するが、ドラッカーは「成果」に着目することを勧めている

強みはある一点によってのみ測られる。それは成果である。強みはぼんやりとした抽象的なものではなく、成果という具体的なものの中に、その姿を表すものだ。「強み」は成果を通してその姿を表す。

 

いかにもドラッカーらしい、単純明快なメッセージである。繰り返し行い、毎回成果が出たり周囲から評価されるものは、仮に自分ではそうだと思っていないとしても、それは強みだということである。

そしてそのためには、あらかじめどのような成果を得たいか目標を定めておき、のちにそれを振り返る「フィードバック分析」が効果的だともドラッカーは語っている。

強みを知る方法は一つしかない。フィードバック分析である。何かをすることに決めたならば、何を期待するかをただちに書き留めておく。9か月後、1年後に、その期待と実際の結果を照合する。私自身、これを50年続けている。そのたびに驚かされている。

こうすることで、自分自身でも気づかずにいる自身の強みに気づける、、、かもしれない。

 

なおここまでの話は以下の書籍に詳細に書いてあるので、興味のある方はそちらを参照してください。

 

ストレングスファインダーを利用する

ただ、フィードバック分析なんて面倒くさいよ、という人もいるかと思う。

そういう人におすすめなのか、「ストレングスファインダー」という「才能診断」ツールである。Webサイト上で177個(多い!)の質問に答えると、自分の才能(=強みの元)を教えてもらえるという仕組みである。ストレングスファインダーでは34の才能の資質(例えば「責任感」とか「達成欲」とか「調和性」とか)を定義しており、テストの回答によって最も特徴的(優先度の高い思考、感情、行動のパターン)な5つを診断結果として教えてくれる。
(現在では別料金を支払うことで34資質すべての順位を知ることも可能)

受講するには、以下の書籍を購入して、書籍に付いているシリアルコードを診断ページに入力するだけでOKだ。

※シリアルコードは1回だけしか使えず、そのため中古本だと診断テストを受けれれないので注意が必要だ 

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 新版 ストレングス・ファインダー2.0
 

またシリアルコードをWeb上で購入することもできるが、解説がちゃんと付いてくる書籍を買う方がおすすめである。

www.gallupstrengthscenter.com

 

 なお私のトップ5は次の通りである。「戦略的思考力」分野が多いのは、コンサルタントとしてちょっと嬉しいところ(才能資質の分野は「戦略的思考力」「実行力」「影響力」「人間関係構築力」の4種類)。

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なおトップ10まで見てみると次のようになっており、


1. 学習欲

2. 達成欲

3. 戦略性

4. 内省

5. 活発性

6. 着想

7. ポジティブ

8. 自己確信

9. 収集心

10. 信念

 

34項目すべて並べた結果は次の通りだ(このマップは書籍を買うだけでなく、追加で費用を支払わないと表示されないので要注意。全部で5,000円ぐらいかかる)。

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このように眺めると、考えることが強みであるがそれだけでなく達成欲も強く、結果を出すためには考えながらすべきことを行えるのが自分の強みだとよく分かる。一方で、慎重さや調和性という要素は欠けるので(自覚あり)、そこに関しては、暴走しすぎないように周囲にブレーキ役がいれくれることが大事だということまで教えてもらえる

 

なお6番の着想は、自分自身ではそれほど強みだとは思っていなかった点であり、まさに本テストによって気づかせて貰えた強みであるし、一方で自分では他者に「共感できる人間だ」と思っていたのだがその要素は28位という低い順位。これは自身の認識と周囲からの思われ方にギャップがある可能性があるため、要注意だ。

 

診断が有料なのと、177問もあるので診断テストを受けるのに30分程度かかるが、それに見合う価値はあると思う。お盆休みで自身を振り返りたいという方には、是非取り組んでみてもらいたい。

 

なお本投稿に興味を持っていただけた方は、きっとこちらの投稿も面白く読んでもらえると思うので是非お目汚しください。

lightingup.hatenablog.com

 

ではでは。

 

生きていることそのものを噛み締める 〜 淡きこと水のごとし:安岡正篤の教えその3

びっくりするぐらい中身の無いどうでも記事がプレジデントオンラインに掲載されていた。

オッサンは会議用途で炭酸飲料を買う傾向があり、若者は水を買う傾向だそうだ。

打ち合わせや会議などをおこなう際、その場でもっとも年齢の低い若手がペットボトル入りの飲料を人数分買ってくる姿は、ビジネスにおける定番の風景のひとつだろう。

だが、こうした場面で「どんな飲みものを買ってくるか」が原因の“世代間断絶”が発生している、という声を耳にした。

50代の男性カメラマンが、取材先でこうぼやいていたのだ。

「撮影の合間、アシスタント(20代)に人数分(10人弱)のドリンクを買いに行かせたら、ミネラルウォーターばかり買ってきたんです。なぜ、水にお金を払わなくちゃいけないのか……。せっかく買うのだから、コーヒーやジュースを買ってきたらいいのに。信じられないです」

このエピソードを40~50代の人々にも話したところ、「あるある!」という意見が続出した。

「確かにウチの若手も、コンビニに行って『なんでも好きな飲み物を買っていいよ』というと水を選びます」(40代男性)
「『打ち合わせ用の飲みものを用意して』とお金を渡したら、2リットル入りの水1本と紙コップを買ってきたんです。コーヒーやお茶、ジュースなどいろいろな飲みものを何本か見繕ってくるのが当たり前の感覚だと思っていたので、一瞬、絶句してしまいました」(40代男性)

また、50代の女性社長は「私が若者に『何か飲みものを買ってきて』と頼んだときに水を買ってきたら、ムカっとします」と苦笑したあと、さらにこう続けた。

「若者と一緒に喫茶店に入ったりすると、彼らが烏龍茶や麦茶など自宅でも簡単につくれるような品を頼んだりする。これも、なんだかイヤですね。私がお金を払うのだから、イチゴジュースとかクリームソーダといった、家ではなかなか飲めないようなものを頼んでほしい」

president.jp

記事の内容へのツッコミはいったんおいておいて・・・笑

 

水っておいしいよね、、、と感じるとともに、僕が心の師を仰ぐ安岡正篤先生の「淡」についての教えをふと思い出した。

 

淡として水のごとし

子供時代に食べられなかったピーマンを大人になると好きになるように、成熟するにつれ(?)味覚は甘味、渋みと変化し、最後に行きつく先がの水の「淡」の境地のようだ。

老子は柔弱、つまり硬化しない、素直で弾力的な自然的生命の代表として水を挙げておる。老子は水の讃美者です。「上善は水の若(ごと)し」。善の上なるものは水だ。最もうまいものも水だと古人も言うておる。

「淡として水の如し」なるほどそう言われれば、死にがけに酒を持ってこいとか、コーヒーが欲しいとか言う者はない。水、水と言う。やっぱりこれが一番うまいのだろう。『荘子』に「君子の交(まじわり)は淡として水の若(ごと)し」という名高い言葉がある。ある弟子が先生に、「それじゃ、君子の交なんてつまらんじゃありませんか。即ち何だか味がなくて、そうして水みたいだというんでは面白くないじゃありませんか」と言われて、先生が答えられなかったという話もあるが、これは淡とか水とかいうことの意味が分からんからであります。

淡というのは、そんなあっさりした味気ないという意味ではない。味の極致を淡という。甘いとか酸っぱいとかいうことを通り越して、何とも言えない味という。老子はこれを無の味と言うておるのです。それを淡という。何とも言えない、強いて言えば無の味、それは何だと言えば、実在するものでは結局水だ。万物は水から出たことは語承知の通りだ。人間の身体も八割は水だ。だから結局死ぬ時には、水が足らなくなるから、水ということになるんで、結局水が一番うまい。

私はいつか「師と友」に緑陰茶話というものを書いて、茶の説明をしたことがある。煎茶というのは三煎する。その第一煎で、良い茶の芽、それへ湯加減をよくして注ぐと最初に茶の中に含まれておる甘味が出てくる。その次にはタンニンの渋味を味わう。それから三煎して、カフェインの苦味を味わう。甘味、渋味、それから何とも言えない苦味、その上がつまり無の味、淡の味である。これを湯加減して味わい分けるのが茶の趣味、茶道である。

人間も甘いというのはまだ初歩の味です。あいつは甘い奴だという。これはまだ若い、初歩だ。だいぶ苦味が出てきたというのは、苦労して本当の味が出てきた。だから人間が大人になってくると、だいたい甘い物は好まなくなる。甘い物が好きなんていうのは、これはあまりできておらぬ。苦言、苦味を愛するようになる。そうなってくると何でも渋くなって、それから苦を愛し、淡を愛し、無という境地になる。

[新装版]活眼 活学(PHP文庫)

[新装版]活眼 活学(PHP文庫)

 

 

 別の書籍では次のように書かれている。

『人、一字識らずして而も詩意多く、一偈(いちげ)せずして而も禅意多く、一勺濡らさずして而も酒意多く、一石暁(さと)らずして而も意多きあり。淡宕の故なり。』

人間は、文字の教養がなくても、況や学校なんか出なくとも人柄そのものが詩的である。参禅なんてやらなくとも禅客よりもずっと超越した妙境にある人もいる。酒を一滴も飲まないで、飲む人よりも飲酒の味・趣を豊かに持っている人もいる。一つの石の描きかたも知らないでも人間そのものに画意、絵心が豊かにある人もいる。どうしてかというと「淡宕の故なり」と締めている。「淡」とは「淡い」である。淡いとは味がない、薄味などと言っては「君子の交わりは淡・水の如し」などは、水のように味がないとなってしまう。実は甘いとも渋いとも言うに言えない妙味、これを「淡」という。「宕」は堂々たる大石がでんとして構えているということ。老人の茶飲み友達などは実は何とも言えぬ味のある友達ということで、至極の境地に至っている。その「淡い」であり、しかしそこに何とも言えないおおらかさ、強さ、逞しさを持っておるというのが「宕」、だから「淡宕」という言葉は実に味のあるいい言葉である。

 

 甘いとも渋いとも言えないなんとも言えない味わいを噛みしめるのが、味の極地の「淡」であり、その代表格が水とのこと。

もっとも記事に出てくる「水を好む若者」が「淡」の境地に至っているかと問われればそうではなく単に合理性や、ひと昔の「物がなかった時代」を経験していないので「水を買うこと」に抵抗感を抱かないからだと思います。一方で、炭酸を好むおっさんには、いい歳なんだから「淡」の境地に近づいてもらいたいと思いますが笑。

 

生きていることそのものを噛みしめる

さてこの「淡」を人生で考えるとどうなるのか。

苦いは辛い、甘いは楽しいなどと読み替えることができると思う。辛いも楽しいも一時的なものであるが、辛いはおいておいて、刹那的な楽しみだけを追い求める人生は、まだまだ甘いということではないのか。

 

最近、よくそういうことを考えている。楽しいことは、もちろん楽しい。友人と遊ぶでもいいし、美味しいものを食べるでもいいし、行楽地に出かけるでもいい。でもそういう一時的な楽しみだけを追い求めるのが人生で目指すべきものなのかな、となぜかこの頃考えるようになった。

刹那的な楽しみではなく、セミの音で夏の訪れに気づいたり、夕焼けの美しさにふと足をとめて見とれてしまったり、そういう日常の中での淡い出来事に、生きていることそのものを噛みしめる。それこそが生きる幸せではないかなとぼんやり考えている次第です。

 

まだまだ考え中のため、とりとめのない形ですが、ここらで失礼します。

ではでは。